防災の日 関東大震災の記憶




9月1日は防災の日ですが、それは関東大震災のあった日です。

 

上の図は右から読んで「本所区」今の墨田区の関東大震災による被災状況を表す地図の一部です。

リンク先では、近辺のどれだけの広さの地区が燃え尽きたかがわかります。

これは東京都立図書館デジタルアーカイブにある資料です。十字架のような印は屍体集積地、赤い数字で34,500とあります。 その場所に34,500の御遺体が集められたということです。 すぐ近くにも500。

 

こちらの地図では 火の周り方と飛び火の仕方等々よりリアルさを感じます。  地震そのものの被災より、その後の火災により被災したので、昭和までは、「地震だ!まず火を消せ!!」と標語になっていたほどです。

 

墨田区の両国近くに 震災記念堂があるのを御存知でしょうか? 先の御遺体が集められた場所というのは、そこです。 正確には、集められる前にそこに相当数の人が避難し、焼け死んだ、そう聞いています。 私は古い地元民の流れを汲むので 「震災記念堂」と言ってしまいますが、今は 「東京都慰霊堂」と言うそうです。 サイトによれば、「大正12年(1923)9月1日に発生した、関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納める」とあります。 直後の調査で35,000程度集められた御遺体は、(前出の地図作成時の数字)最終的に6万近くとなったのですね。 私の祖父は この関東大震災で母親と弟を亡くしました。 私は何度か祖父に連れられて(幼稚園~小学校低学年の頃)、9月1日の慰霊大法要に行っています。 子供なので縁日のようなノリでしたが、それでも資料館で見た「その時」を物語る絵はすさまじく、展示物にもとてもただならぬものを感じました。 そこはかつての「しふくしょあと」と耳で聞いて知っていたのですが、成人以降のかなりの大人になってからそれが「被服廠跡(ひふくしょうあと)」と判りました。 今時のことなので、検索すればいくらでも当時の悲惨な写真は出て来ますが、敢えてリンクは貼りません。 

 

前回の「終戦記念日に思うこと (東京大空襲に思いを馳せる)」の時にも少しふれましたが、いきなり火の手があがる、と言う事についての補足というか、説明を加えておきますと、これは戦争体験としての叔父から聞いた話ですが、吹いてくる風自体が火のような熱風であり、それは火そのものと同じくらいなのだそうです。 私たちの最近の暮らしは火そのものさえからも少し遠のいてしまいましたが、直接火に触れなくても、上昇気流に含まれる熱で容易に発火するのは多くの人が御存知かと思います。 だから、関東大震災のときも、延焼では説明できないくらい、全てが焼け野原となったようです。 火が風を生み、風が火をさらに広める。 それは自然現象ですが、大震災の時には、想像を絶する火の竜巻のようなものがやってきたそうです。 それ以外に「火元」が存在します。


下の左図は、前出のこちらの地図の「序」の説明の一部ですが、元々は東京で学生をしている親御さん達の問い合わせに答えるために調査をし、まとめたようです。 確かに当時では情報量は少なく、被災者で生き残った者の情報が必要なのはそこに住む者だけでなく、日本中にいらしたのですね。 その想像力はありませんでした。 今回改めて知りました。 


下の右図は、同じアーカイブの中の 別の資料ですが、東京市のまとめで、回答は各区によるもの とあり、マーキングは私が加えましたが、日本橋区(現中央区)では残存戸数が会社が3つ、深川区(現江東区)では、わずか10戸!共に残存人口は不明とあるくらい何もかも全てなくなったのが数字でわかります。


さまざまな災害が各地で発生するたびに、私は情報ということについて 考えます。

かつては、情報の少なさからとんでもないことになりました。 在日の方々が火をつけたという話。 そして、まったく無実の方々が私刑により亡くなったらしいと、私も聞いています。 らしい、というのは、祖父も殺されるところを見たわけでは無く、ただ 自警団なのか警察関係なのかは忘れましたが、日本人かどうかを確認するのに 順番に発音させられた というのを聞いています。 連れて行かれれば戻ってはこないと。

 

今は、情報の多さと早さがとんでもないことになりかねない。 そう思います。

また、当事者以外は所詮他人事。それは仕方のないことです。 そして、当事者以外は まもなく忘れて行ってしまうのも仕方のないことなのではないでしょうか。 被災を知っている本人や身内の者しか伝え残せないのではないのかと思うようになりました。 最近、私は、知っていることを伝え残さなくては・・・と思うようになってきた・・・それは年齢のせいでしょうかね。(笑)